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最高裁判所第三小法廷 平成2年(オ)326号 判決 1994年10月25日

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

一  上告代理人竹田章治の上告理由第二点について

土地所有者が借地法六条二項所定の異議を述べた場合これに同法四条一項にいう正当の事由が有るか否かは、右異議が遅滞なく述べられたことは当然の前提として、その異議が申し出られた時を基準として判断すべきであるが、右正当の事由を補完する立退料等金員の提供ないしその増額の申出は、土地所有者が意図的にその申出の時期を遅らせるなど信義に反するような事情がない限り、事実審の口頭弁論終結時までにされたものについては、原則としてこれを考慮することができるものと解するのが相当である。けだし、右金員の提供等の申出は、異議申出時において他に正当の事由の内容を構成する事実が存在することを前提に、土地の明渡しに伴う事業者双方の利害を調整し、右事由を補完するものとして考慮されるのであつて、その申出がどの時点でされたかによつて、右の点の判断が大きく左右されることはなく、土地の明渡しに当たり一定の金員が現実に支払われることによつて、双方の利害が調整されることに意味があるからである。このように解しないと、実務上の観点からも、種々の不合理が生ずる。すなわち、金員の提供等の申出により正当の事由が補完されるかどうか、その金額としてどの程度の額が相当であるかは、訴訟における審理を通じて客観的に明らかになるのが通常であり、当事者としても異議申出時においてこれを的確に判断するのは困難であることが少なくない。また、金員の提供の申出をするまでもなく正当事由が具備されているものと考えている土地所有者に対し、異議申出時までに一定の金員の提供等の申出を要求するのは、難きを強いることになるだけでなく、異議の申出より遅れてされた金員の提供等の申出を考慮しないこととすれば、借地契約の更新が容認される結果、土地所有者は、なお補完を要するとはいえ、他に正当の事由の内容を構成する事実がありながら、更新時から少なくとも二〇年間土地の明渡しを得られないこととなる。

本件において、原審は、被上告人が原審口頭弁論においていわゆる立退料として二三五〇万円又はこれと格段の相違のない範囲内で裁判所の決定する金額を支払う旨を申し出たことを考慮し、二五〇〇万円の立退料を支払う場合には正当事由が補完されるものと認定判断しているが、その判断は、以上と同旨の見解に立つものであり、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。所論引用の判例は事案を異にし、本件に適切でない。論旨は、独自の見解に基づいて原判決を非難するに帰するもので、採用することができない。

二  その余の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程にも所論の違法は認められない。右判断は、所論引用の当審判例に抵触するものではない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官可部恒雄の補足意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官可部恒雄の補足意見は、次のとおりである。

一  法廷意見は、借地法四条一項但書所定の「正当ノ事由」の有無は、同法六条による異議申出時を基準として判断すべきであるとして、従前の実務の取扱いを是認しつつ、いわゆる正当事由の補完事由としての立退料等の金員の提供ないしその増額の申出は、事実審の口頭弁論終結時までにされたものは原則として考慮することができる旨を判示した。

右にいう補完事由としての立退料等の金員(以下、記述の便宜上、単に「立退料」と略称する)の提供等の申出と、正当事由を具備するか否かの判断の基準時との関係については、借地関係に特有の、ともいうべき実務上の問題点があり、本件はまさにこの点についての先例となるものと考えられるので、以下に法廷意見を補足して意見を述べておくこととしたい(なお、借地借家関係の法令については、記述の便宜上、借地借家法(平成三年法律第九〇号)施行前の借地法及び借家法によることとする)。

二  借地権は建物所有を目的とするため、その存続期間として三〇年ないし六〇年にわたる長期間が法定され、更新後の期間も堅固建物については三〇年以上、非堅固建物についても二〇年以上とされており、土地所有者にとつては、借地権の存続期間の満了時を除いては貸地の返還を求め得る機会はない。そして、土地所有者が借地権者による契約の更新の請求又はいわゆる法定更新を拒絶するには、実体的には、「自ラ土地ヲ使用スルコトヲ必要トスル場合其ノ他正当ノ事由アル場合」であることを要し、さらに手続的には「遅滞ナク異議ヲ述」べることを要するものとされる。

ところで、借地法の条文の構造からすれば、正当事由を具備するか否かの判断の基準時は、借地権者の更新請求又は(存続期間満了による)借地権消滅後における土地の使用継続に対する異議申出時をもつて原則とするのが最も素直な解釈であり、借地についての比較的少数の先例もその趣旨に読むことができよう(最高裁昭和三七年(オ)第一二九四号同三九年一月三〇日第一小法廷判決・裁判集民事七一号五五七頁、最高裁昭和四八年(オ)第八五九号同四九年九月二〇日第三小法廷判決・裁判集民事一一二号五八三頁)。

三  ここで登場するのが、正当事由の補完事由としての立退料の提供ないしその増額の申出と正当事由具備の判断の基準時との関係である。

立退料の提供は、戦後、借地法の解釈適用に関する実務の運用上、借地契約の更新を求める借地権者と更新を拒絶する土地所有者との間の利害の調整を図るべく、いわば実際の必要に基づいて実務の中から生み出されたものであるが、立退料の提供により正当事由が補完されるか否か、特にその金額として幾許が相当であるかは、訴訟での審理を通じて初めて明らかになるのが通常であることは、法廷意見の指摘するとおりであるのみならず、当事者の立場にあることから、それぞれに主観的事情の伴うことも避け難いところである。

したがつて、前記のように、正当事由具備の判断の基準時は異議申出時をもつて原則とすべきであるとはいつても、「遅滞ナク」異議を述べるべきその時点において、立退料の提供、しかも後に受訴裁判所において相当として許容されるべき金額の申出をすることを要するというのは、土地所有者と借地権者との間の土地使用関係の解消に伴う紛争の実態に合致せず、立退料のもつ本来の補完的性質にも反し、実務の産物であるその実際的機能を著しく減殺し、遂には殆ど無に帰せしめる結果ともなろう。

そこで、異議申出の時点を原則とするとの見地に立ちつつ、立退料などいわゆる正当事由の補強条件の申出が事後になされたとしても、客観的な事実の変遷とは性質を異にすることに着目し、遅すぎる補強条件の申出として法的安定性を害するおそれのない限り、これを加味して判断すべきであるとか、基準時(異議申出時)において予想し得たものである場合、又は基準時における正当事由の存否の徴憑たり得るものである場合には、これを補完的に考慮すべきであるとか、の解釈上の努力(注)が裁判例に現れることとなるのである。

注I 東京高裁昭和五一年二月二六日判決・高民集二九巻一号一六頁、II 東京高裁昭和五四年三月二八日判決・判例時報九三五号五一頁、III 東京高裁昭和六一年一〇月二九日判決・判例時報一二一七号七〇頁等がそれである。

右のI東京高裁昭和五一年判決(最三小昭五一・一一・九判決により上告棄却)は、「補強条件の申出の要件としての『遅滞なく』とは、単に歳月の日数によつて算えられるべきでない」として、更新拒絶より四年一〇ケ月後の金員提供の申出及び更に九ケ月後の増額の申出を、「遅滞なく」されたものであるとした。次に、右のII東京高裁昭和五四年判決(最二小昭五五・一・二五判決により上告棄却)は、異議申出時より九ケ月後の立退料提供の申出及び更に一年後の増額の申出により、また、右のIII東京高裁昭和六一年判決(最三小平元・七・一八判決により上告棄却)は、異議申出時より四年五ケ月後の立退料の申出により、いずれも正当事由が補完された旨を判示した。

四  以上、正当事由の補完事由としての立退料の提供ないし増額の申出と正当事由具備の判断の基準時との関係を借地関係について見てきたが、有償による不動産の使用関係の解消については、借地のみならず借家関係についても同様の問題が存するかに見える。借家についても、建物の賃貸人が賃借権の更新を拒絶し又は解約の申入れをするについては、自己使用その他「正当ノ事由」を具備することを必要とし、正当事由の補完事由としての立退料の提供が実務の中から生み出されたのは、むしろ借地に先立つ借家の関係においてであつたといつてよいからである。

五  しかしながら、借地関係と借家関係では、この点の様相を著しく異にする。

すなわち、

地上建物の保護のため二〇年以上の長期にわたつて借地権の存続期間が法定される借地関係に比し、借家関係については、借家権の存続期間を長期にわたつて法定するところがないばかりでなく、約定により期間の定めのある賃貸借においても、借家法二条による法定更新の後は、期間の定めのない賃貸借となるものとされ(最高裁昭和二六年(オ)第八一号同二八年三月六日第二小法廷判決・民集七巻四号二六七頁)、期間の定めのない借家契約は、「自ラ使用スルコトヲ必要トスル場合其ノ他正当ノ事由アル場合」には、六ケ月の告知期間を置くことにより(注)、いつでも解約の申入れをすることができる。

注 正当事由は解約申入れの時から六ケ月間存続することを要するとするのが判例であるといつてよく(最高裁昭和二七年(オ)第一二七〇号同二九年三月九日第三小法廷判決・民集八巻三号六五七頁、後出最高裁昭和四一年一一月一〇日第一小法廷判決、最高裁昭和四〇年(オ)第一〇八号同四二年一〇月二四日第三小法廷判決・裁判集民事八八号七三三頁)、下級審の裁判例としてもこれが実務の大勢を占めている。

そして、建物の賃貸人が賃貸借契約の解約申入れに基づく該建物の明渡請求訴訟を継続維持しているときは、解約申入れの意思表示が黙示的・継続的に(注)されているものと解すべきである、とすること判例である(最高裁昭和四〇年(オ)第一四九七号同四一年一一月一〇日第一小法廷判決・民集二〇巻九号一七一二頁)から、当初の解約申入れの時点(A)では、正当事由を具備するというに足りないとされる事案においても、その後、立退料の提供の申出(B)があり、さらにその増額の申出がなされた時点(C)で正当事由の補完が認められるならば、その時(B又はCの時点)から六ケ月の期間の経過により、解約の効力を生ずることになる。

注 右の昭和四一年判決に先立つ最高裁昭和三〇年(オ)第一七九号同三四年二月一九日第一小法廷判決・民集一三巻二号一六〇頁の判例評釈は、「有効な解約申入を理由とする明渡訴訟の提起、その維持・継続」により「時々刻々解約申入がなされている」と解し得るとした(星野・法協七八巻一号一〇八頁)。これが右の昭和四一年判決の説明のために借用されているのは十分肯けることである(同年度解説[90]四九一頁)。

六  以上に見るように、借家関係については、借地のそれと異なり、「一年未満ノ期間ノ定アル賃貸借ハ之ヲ期間ノ定ナキモノト看做ス」(借家法三条ノ二)とするのみで、借家権の存続期間についてそれ以上に規定するところがなく、法定更新後は期間の定めのない賃貸借となるので、正当事由を具備する限り、何時でも解約の申入れをすることができ、解約申入れを理由とする明渡訴訟の継続中は「時々刻々」解約申入れがなされていると解すべきである、というのであるから、こと借家に関する限り、正当事由の補完事由としての立退料の提供ないしその増額申出の時点と、正当事由具備の判断の基準時(黙示的な解約申入れの時点)とは、もともと一致し、或いは実務上些少の工夫により容易に一致させることができ、右の補完事由の申出の時点と基準時との不一致に由来する実務上の困難は、借地関係に特有の問題であることが明らかとなるのである。

七  借地と借家との別は以上のとおりとして、ここで改めて検討を要するのは、正当事由の補完事由としての立退料の提供ないしその増額の申出は、自己使用その他、正当事由の内容を構成し、原被告間においてその存否が争われる「事実」であるのか、という論点である。

立退料の提供ないしその増額の申出は、訴訟上、受訴裁判所の関与の下に、訴訟当事者である土地所有者から借地権者に対してなされるもので、土地所有者の自己使用の必要とか、借地権者の地上建物に対する生活上の依存度というような、基準時における「事実」として、当事者間においてその存否が争われる余地はなく、立退料の提供の申出は、基準時において正当事由がなお充足されず、土地所有者の側からする一定額の金員の提供によつて初めて正当事由が補完され得るという事案において、受訴裁判所をして右金員の支払と引換えに(その支払は執行開始の要件である)借地権者に土地明渡しを命ずる判決をすることを可能ならしめるものであり、この点においてのみ法律上の意味を有するものにほかならない。

受訴裁判所は、たとい一定額の金員の支払により正当事由が補完され得ると判断した場合においても、原告たる土地所有者からその旨の申出がない限り、前記の引換給付の判決をすることはできず、また、原告が明確に上限を画して一定額以下の金員の提供を申し出た場合に、その上限を超えて引換給付の判決をすることは許されない。「裁判所ハ当事者ノ申立テサル事項ニ付判決ヲ為スコトヲ得ス」(民訴法一八六条)とする点の拘束は、その意味で絶対的であるといつてよい。

立退料の提供の申出のもつ法律上の意味は以上のとおりであり、そして、それ以外の意味をもたない。正当事由の補完事由とされるとはいえ、それは正当事由の内容を構成するものとしてその存否が争われる「事実」ではない。にもかかわらず、それが正当事由の補完事由とされるが故に、正当事由具備の判断の基準時との関係で実務処理上の困難に出遭い、下級審裁判例において様々の解釈上の努力が積み重ねられて来たことは、さきに見たとおりである。

思うに、判例形成の責任が最上級審にあることはもとよりであるが、さきに注記した裁判例に見るような、実務上の困難に対処するための苦渋に満ちた解釈上の努力から、もはや脱却すべき時機が到来したことに、実務上の注意を喚起しておきたい。本判決の意義はそこにあると考えられる。

注 立退料の提供又はその増額の申出と正当事由具備の基準時との関係につき、法廷意見と共通の見解を示す比較的最近の判決がある。最高裁平成二年(オ)第二一六号同三年三月二二日第二小法廷判決・民集四五巻三号二九三頁がそれである。

しかし、同判決は借家に関するもので、右の基準時との関係で実務上の困難に遭遇していた類型の事案でないばかりでなく、同事件の上告人は借家人であつて、立退料の提供ないし増額の申出についての同判決の所見は、被上告人たる賃貸人にとつて有利となることこそあれ、賃貸人たる上告人の有利に働く余地のないことはむしろ自明のところであろう。したがつて、その判旨のような見解を上告論旨が開陳したのであれば、これが肯定されても上告人自身に不利益を齎すのみであるから、上告理由として体をなさないものとならざるを得ない。しかるに、判旨が、論旨の何ら言及するところのない見地に踏み込んで、進んで職権的に判断し、その結論が不利益変更禁止の原則により許されないというのは、上告審の措置として理解しにくいところがある。同判決の事案が借家に関するものであることに加え、先例拘束性をもつ判例としての位置づけが困難である点に、法廷意見が同判決に言及しない理由があるように思われる。

なお、本判決に従い、補完事由としての立退料の提供ないし増額の申出が事実審の口頭弁論終結に至るまで許されるとして、次に、土地所有者の申し出た立退料の額の相当性を判断すべき金額評価の時点は何時か、の問題がある。土地所有者による立退料の支払が借地権者に対する収去明渡しの執行と引換えになされるもので、引換給付の時点における借地権者の不利益を緩和ないし補償すべき性格をもつところからすれば、その時点に最も近接する事実審の口頭弁論の終結時において、土地所有者の申出にかかる金額が相当なりや否やを判断するほかなく、この論点は、本判決の示す結論の延長線上にあるものと考える。

(裁判長裁判官 園部逸夫 裁判官 可部恒雄 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信)

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